本文訳
(養父の)諸葛玄が死ぬと、亮は農作をして自給自足で暮らした。※1この頃、亮は『梁父の吟(りょうほのぎん)』という歌を好んで歌っていた。※2
亮の身長は八尺(184センチ)※3、つねに自分を管仲・楽毅※4 になぞらえていたが、当時彼の周囲にいた人々は認めなかった。
ただ亮の友人だった博陵の崔州平・徐庶元直らは「まさにその通りだ」と言っていた。
裴松之注より、エピソード抜粋
隆中の場所
亮が若い頃に住んだ「隆中」という地は、『漢晋春秋』によれば「南陽郡鄧県、襄陽城の西二十里」とのことです。これが現代でどこに相当するのか、湖北省襄陽市襄城区隆中の「古隆中」と南陽市臥龍区臥龍崗街道の「臥龍崗」とで争いがあります。私的なイメージ: 筆者はなんとなく古隆中のほうが正しい気がします。ただテーマパーク(古隆中公園)の中に作られている家や畑は、当然ながら昔の彼の家があった場所ではないと思います。まあ、皆さん分かっているでしょうし、観光地なので正確な場所ではなくても構わないのでしょう。
諸葛亮の勉強方法
『魏略』に、学友は一字一句を記憶する勉強方法をとっていたが、亮は大要をつかめばいいという感じでテキストを読み流して二度と読み返そうとしなかったと記録されています。亮らしいエピソード、おそらく史実でしょう。
なお、このエピソードはアンチが「諸葛亮はろくに勉強しなかった」「大雑把な性格」とバカにする根拠として使っていますが、このような勉強法を得意とするタイプが現実に存在するのは事実です。
筆者もその一人。そして私は、この勉強法でたいていの試験で上位の成績を取ることが可能です。
このような勉強法をするタイプが「大雑把」と言われることは否定しません。しかし短時間でポイントを掴むには向くため、多読が可能です。従って幅広い情報処理が求められる戦略・法律・医療などの専門分野には向くだろうと思います。
出世に興味のなかった諸葛亮
同じく『魏略』より。(一字一句にこだわる勉強をしていた)学友に対し、亮は“君らは仕官すれば州刺史か太守くらいになれるだろう”と言った。“ではお前はどこまで出世する気だ”と聞かれると笑って答えなかった。これもいかにも亮らしいエピソードで、史実と思います。…続きは解説で
その後、友人の孟公威が故郷へ帰って曹操に仕えようとしたとき、
“中原(国家の中心)には人材が多い。なにも中原ではなくても君の能力を活かすことはできるだろうに”
と言った。
解説
諸葛亮の若い頃に関する記述です。米印から解説します。
※1 玄が死亡した理由
諸葛玄は、漢皇帝を気取った袁術の勝手な任命で予章太守となりましたが、朝廷が朱皓と交代させました。朱皓は軍勢をもって諸葛玄を攻め、耐えきれず玄は西城(南昌の西)へ撤退します。
しかし朱皓が西城へ入城。恐れをなした西城の住民によって裏切られ、玄は殺されて首を朱皓へ差し出されました。
『献帝春秋』
裴松之はこの点、「本文の説と食い違っている」と指摘していますが、おそらく陳寿の文が誤っているのです。
軍勢が迫ったとき、玄は亮と均など子供たちだけ旧知の劉表のもとへ送り届け守護するよう頼んだ。そして自分は南昌へ留まり戦いに臨んだが住民の裏切りに遭い殺害された……という経緯だったと推測されます。
陳寿は「玄は、亮と均のみ荊州へ赴かせた」と書くべきでしたが、書き分けることを忘れたのかまたは詳細情報を把握していなかったものと思います。
この戦闘の最中に玄と亮・均が別れていなければ、亮たちが荊州で生き残り、玄のみが西城で死亡したことの理屈が通りません。
なお、玄の死後に亮が「自給自足で暮らした」とあるのは遺産を相続できなかったことを表します。
仕官しなかったのは現代日本と違い、「就職したくないからニートになった」ということではありません。もう少し攻めた人生の選択です。
当時、役人になることが可能な家柄の人でありながら仕官せずに農民風情を装って暮らすのは特殊で、それだけで思想家としての挑戦的な生き方を意味しました。『老子』的な無為の生き方を選び取ったということです。
当時の荊州ではそのような無為の生き方が若者の憧れであった(荊州にそのような思想家がいた)ため、諸葛亮も思想家を目指して攻めの意識で選択したわけです。
※2 梁父の吟
いきなりここで「歌を歌っていた」とする文が挿入されているのは意味不明です。当人の個性を表現するのに必要でしょうか?この明らかに不自然な箇所はフィクションだと私は考えています。
歌の本文、詳細についてはこちら。→天下三分の計は捏造? 「梁父の吟」の真実
※3 身長について
「身長八尺」については、中国記録書ではよくありがちなフィクションでしょう。中国では民間で尊敬されている人物については高身長で記録することを当然としています。読む人もフィクションだと認識することが分かっている「お約束」なので、鵜呑みにしてはなりません。ただ仮に諸葛亮が痩せ型で、姿勢が正しかった(貴族階級出身のため姿勢は正しかったと思われる)のだとすれば、遠方から眺めた人々から高身長と思われた可能性はあります。
※4 管仲・楽毅
管仲(かんちゅう)は内政に長けた政治家、楽毅(がっき)は戦略に長けた武将。どちらも亮が生きていた時代より遥か昔の偉人です。つまりこの時、亮は「自分の能力は政治能力(文)も戦略能力(武)も偉人に匹敵する」と豪語していたことになります。
私はこの話をフィクションではないかと思っています。これから隠棲し思想家になろうと考えている若者が、表舞台に立つ人物代表である管仲・楽毅に自分をなぞらえるでしょうか? 不可解です。老子や荘子になぞらえるなら、それも図々しいけどまだ分かります。
後に、亮は自分でも思ってみなかった人生を送り、蜀の文武を担うこととなりました。葬送の言葉に「君は文武に長け…」とある通り、管仲・楽毅に喩えられることもあったと思います。
この箇所の記録文は、亮が管仲・楽毅に喩えられるようになった後に考えた作り話と思われます。
『魏略』の記録に何故か熱く反論する裴松之
亮が“君らは仕官すれば州刺史か太守くらいになれるだろう”と言った記録について。後世から見れば、諸葛亮は太守よりも出世したために「一生懸命に勉強している友人をバカにしていた」と思えるかもしれませんが、そうではないでしょう。
亮は懸命に勉強している人の努力を認めているのですが、
「一字一句テキストを覚え込み、仕官して州刺史や太守になる人生の何が楽しいのだろう。自分はそんな地位など要らない」
と思っているわけです。
「なにも中原ではなくても~」
についても同様で、中原で無理をして出世競争に飛び込み辛い人生を送るよりは、辺境でも思う存分生きたほうが良いだろうということです。友人を想えばこそ出た言葉でしょう。
裴松之は何故かこの記録文に激怒していて、
「記録者は諸葛亮の気持ちが分かっていない! 諸葛亮が自分を投影してあのようなことを言うわけがない。彼が中原へ行けば全ての者を蹴散らして出世できたはずだ。あれほど有能な人なのだから自分で自分の才能が分からないはずがない(全文はこちら)」
などと熱く語っています。
裴松之が何を怒っているのか私には分かりませんでした。笑
すみません。
出世に興味がない、出世競争よりも志を果たす手段はいくらでもあると考える人間が存在するのは、それほど理解が及ばない奇異なことなのでしょうか?
人生には、出世以外に大切なことがたくさんあると思いますけどね。
全ては後世の目から見た誤解だと思われます。
少なくともこの時の諸葛亮はまだ自分が世に出るとは思っていません。後に『出師表』にて自分自身で言っている通り、
「戦乱の世で平凡に生きていけばそれでいい」
と思っていたわけで、自分の能力の高低についても考えたことすらなかったでしょう。(出世に関心のない者にとって、自分の能力の高低などどうでもいいことです)
裴松之曰く、「辺境で安住することをもってよしとするようなけちな考えでいたわけがない」に笑いました。
ケチで結構、と私だったら思いますね。
個人としての自分が出世することだけを考える人生は、申し訳ないけど「くだらない」と思ってしまいます。
ただ運命が自分を求めるならば、身を棄てても務めを果たすべきだと思うだけです。
こう思う私は諸葛亮と同じく変わり者と呼ばれ、誰にも理解されないでしょうか。
続きの雑談 →ここで話題とした裴松之評、全文引用(と、志について私の考え)