正史『先主伝(劉備伝)』 2 少年期~青年期

2019年2月2日土曜日

劉備 蜀志

本文訳


先主は幼くして父を失ってから、母と草履を売り、蓆(むしろ)を織って生活の糧としていた。
(劉備が少年期を過ごした)家の東南角の垣根の上に(覆い被さるように)桑の大木があった。高さは五丈余りもあり、遠くから見ると葉が生い茂って位の高い人が乗る車の傘のように見えた。往来の人は皆この大木の非凡さを不思議がった。
ある人は言った、
「この家からは位の高い人が出るぞ」。
先主も幼い頃、親戚の子らとこの木の下で遊んでいた時に言った、
「俺は必ずこのような羽飾りの傘が付いた車(皇帝の車)に乗るんだ」。
この言葉を聞いた叔父の子敬は彼を叱った。
「こら、妄言を吐くんじゃない。我々の一族が処刑され滅ぼされてしまう」
   
十五歳になると母親は彼を遊学に出した。
ともに学んだのは親戚の劉徳然、遼西郡の公孫瓚(こうそんさん)。師事したのは同郷の元九江太守である盧植(ろしょく)だった。
遊学資金は劉徳然の父である元起が出した。元起は先主へ我が子と同等の遊学資金を与えたのだが、妻が
「親族であっても家は別。それなのに何故、あの子にうちの子と同じだけの資金を与えるの?」
と苦情を言うと、元起は答えた。
「我が一族にあの子あり。あれは常人ではないぞ」

(遊学先での劉備について)  公孫瓚は先主と親密な友となった。公孫瓚のほうが年上であったので、先主は彼を兄として親しんだ。
先主はあまり読書を好まず、狩りや乗馬、音楽を好んだ。また、流行の美しいファッションに身を包んでいた。
身長は七尺五寸、手は伸ばすと膝の下まであり、振り返ると自分で耳を見ることができるほど耳が大きかった。
言葉数は少なく、腰が低く、喜怒は顔に表さなかった。また大物と交際したので、年下の者たちはこぞって彼に従った。
中山の豪商である蘇双が大金を持って馬を買うため涿郡を回っていた時、(劉備を)見かけて「ただ者ではない」と思い、彼に出資した。
この出資によって先主は人を集めることができた。

吉野解説+裴松之注、抜粋


「正統な史書」のわりにはファンタジー的な逸話も混ざる、劉備の少年期の話。
誰かが「この家からは位の高い人が出るぞ」と言ったことや、劉備自身が「俺はいつか皇帝になるんだ」と言ったことなどは少々眉に唾を付けて読んでおきましょう。中国の史書にはありがちな逸話と思います。

ただし、劉備の家の傍らに大木があったことはおそらく本当でしょう(作り話にしては具体的過ぎるから)。また劉備が大きな夢を抱きそのまま口にする子供だったことも、私はなんとなく事実だと感じます。自分の将来に疑いを持たない、のびのびとした彼の性格タイプがよく表れたエピソードです。

「先主はあまり読書を好まず、狩りや乗馬、音楽を好んだ。また、流行の美しいファッションに身を包んでいた。」
ということはつまり、若い頃の劉備は遊び人だったわけです。
たぶん、素朴で善良な好青年として描かれているはずのフィクション劉備とイメージがかけ離れているのでは?
劉邦のような田舎臭い人物をイメージしているならそれも間違いで、もう少し都会的でスタイリッシュな不良を想像したほうが実像に近いです。
つまり、いつの時代でも「今どきの若者」と揶揄される都会の不良だった劉備。
寡黙だったとのことで、この時期は硬派を気取っていたのかもしれませんが、「最先端のファッションに身を包み徒弟を連れて歩いていた」ということはその街のリーダー格です。年下の男子に慕われたことはもちろん、女性にもさぞモテたことでしょう。

それにしても陳寿の記録には容赦がありません。
「読書しない、勉強しない」
などと記録されてしまうのは少し痛いものがあります。記録されてしまうことを考えると若い時の勉強はしておかねばなりませんね。笑
なお、本人にとって不利な話であり具体性もあるので、筆者はこの遊学期の記録を事実だと考えています。私は個人的にこのような勉強しないタイプが嫌いではありませんが、アンチは最も劉備をバカにして責めるところ。このようにネガティブなことまであえて記録している陳寿のどこが、「蜀びいきで偏っている」のでしょうか? 

「手は伸ばすと膝の下まであり、振り返ると自分で耳を見ることができるほど耳が大きかった。」
この異形として描かれている容姿の描写は決まりきったフィクションで、
 ・長い手 = 遠方でも駆けつけて手助けした
 ・大きな耳 = 他人の話によく耳を傾けた
ことの喩えだと考えられます。
中国史書ではお約束的な喩えです。フィクションであることは常識ですから、陳寿はこれらの描写をまさか未来人が鵜呑みにするとは思っていなかったでしょう。