正史『先主伝(劉備伝)』 3 黄巾の乱、義兵として名を上げる

2019年2月2日土曜日

劉備 蜀志

本文訳


霊帝時代の末、黄巾の乱が起きた。※1
この反乱を鎮めるために、州や郡はおのおの義兵(義勇兵。大義のためにみずから志願する民間兵)を募った。
先主は豪商の出資金で集めた仲間を率いて義兵として立ち、校尉の鄒靖のもとで戦った。
この戦闘で活躍し功績をあげた先主は、安喜県の尉という官職に任ぜられた。
その後、督郵(見回りの役人)が安喜県を訪れた際、先主は謁見を求めたが拒絶された。怒った先主はただちに督郵の宿泊先へ立ち入り彼を縛り、二百回杖で打った。それから自分の印綬(官職の証)を解いて督郵の首にかけ、彼を馬をつなぐ木にくくると、官職を棄てて逃亡した。※2

しばらく後、大将軍の何進(かしん)が都尉の毌丘毅を丹楊郡に遣わし、義兵を募った。
先主は彼に同行し、下邳で賊軍に遭遇した。力戦して功績をあげ(た劉備は)下密の丞に任命されたが、この官職もすぐに去る。その後、高唐の尉に任命され、令として昇進した。
賊軍に敗北した際には、中郎将となっていた公孫瓚を頼った。公孫瓚は上表して(劉備を)別部司馬とし、青州刺史・田楷のもとへ遣わし、冀州の袁紹(えんしょう)の攻撃を防がせた。
(袁紹との戦で、劉備は)たびたび功績をあげたため、試みに平原の令とされ、それから平原の相として治めることになった。

平原の郡民だった劉平はもともと先主を軽んじていて、彼より下位になることを嫌がり、刺客を遣わせて暗殺しようとした。しかし刺客は(劉備を)殺すことができず、自分が刺客として訪れたこと・誰に頼まれたのかなど全てを告白して去った。
(劉備という人の)人心を得るさまは、この通りであった。※3

吉野解説+裴松之注、抜粋

ここには劉備が黄巾乱討伐の義勇兵を率いて立ってから、平原という県の令(太守)・相(知事)として出世するまでの、紆余曲折の道のりが記録されています。
この箇所にフィクションはなく、概ね史実の通りだろうと思います。ファンタジー的な話はありませんし、前項と同じく本人にとって不利となるネガティブな出来事までも淡々と記述されているからです。

残念ながらフィクションで描かれる「桃園結義(桃園の誓い)」などのような、分かりやすく盃を交わすエピソードは現実にありません。
ですが、関羽や張飛に代表される人々、つまりのちに「古参の戦闘部隊」となり死ぬまで劉備につき従う人々とこの時期に深い絆が結ばれたことは確かな現実です。彼らは元々、劉備が地元で集めた義勇兵だったわけです。

米印の解説をしていきます。

※1 黄巾の乱とは

「黄巾乱」とは西暦184年、陰陽道(道教。太平道は道教の一派)を信奉する宗教団体の教祖、張角が呼びかけて起こした大規模な民衆反乱です。この乱をきっかけとして漢王朝は衰退し、国内全土が内乱状態へと突入します。
この時、反乱に参加した者たちが頭に黄色い布を巻いていたことから「黄巾の乱」と呼ばれました。
有名な『蒼天已死 黄天當立(蒼天すでに死す 黄天まさに立つ)』という文はこの反乱時に黄巾軍が掲げたスローガンです。
よく誤解されているように、「蒼天」とは漢王朝のことではありませんし、ただ「晴れがましい青空」などという馬鹿げた意味でもありません。また「黄天」も、ただめでたいだけの色だから目印として掲げたということはあり得ません。陰陽道の宗教団体が起こした革命なのですから、陰陽道に基づいた意味で解釈すべきものです。
 参考:「蒼天すでに死す」の意味とは? 蒼を漢王朝と訳すのは間違い

※2 激昂して印綬を棄てる

裴松之注の『典略』によれば、このとき、黄巾乱の軍功で地位を与えた者たちを再審査せよという詔勅が降っていたそうです。
地位を剥奪するために来ていた督郵に劉備が謁見を求めた際、督郵が仮病をつかって会おうとしなかったため激昂し、彼を逮捕したとのこと。
「怒った先主はただちに督郵の宿泊先へ立ち入り彼を縛り、二百回棒で打った。」
……このエピソードを筆者はいかがなものかと思いますが、彼の性格タイプがよく表れています。

前項の記録からも分かる通り、品行方正な坊ちゃん・あるいは田舎臭いお人好しというフィクション劉備のイメージは誤りです。若い頃の劉備はいわゆる「都会的な遊び人」、「不良」タイプでした。
さらに曲がったことが大嫌いで熱い心を持つ。日ごろは寡黙で穏やかに見えて、逆鱗を持つ人でもありました。正史をよく読めば中年期頃までこの熱くなりやすい性格タイプが記録されていることが分かるはずです。
フィクションでは杖打ちの役を張飛に押し付け、劉備は止める役に回っているようですがそんなことはないでしょう。ここはたぶん劉備が自ら率先して行っています。むしろ周りの人は止めたでしょうが、怒りで熱くなっていたため耳に入らなかったのではないでしょうか?
ただ劉備はこの時、相手が命乞いをしたため冷静となったようです。鞭打ち回数は『典略』では百数十回、陳寿は二百回とまちまち。本当にこの数を実行すれば死んでしまいますので、
「督郵が泣いて命乞いをした」
時点でやめているはずです。
その後「こんな官職は要らない」と印綬を棄てて去ったという記録もまさに、生きた劉備が目に浮かぶほど人格をよく表していると思います。

それにしてもこのような性格的欠点までしっかり記録されている陳寿の正史。偏りなく公平と思います。
重ねて問いたいのですが、これのどこが「陳寿は蜀びいき」なのでしょうか? 

この通り劉備はしばしば激昂することがあり、そのために官職を転々としています。
しかし彼の逆鱗は誰の目から見ても正当でした。
「人の道に反する行い」
つまり義に反すること、筋の通らないことをされたり見かけたりしたときに激昂するのみ。決して弱者へ暴力をふるうことはありませんし、不当な粛清をすることもありません。さらにたとえ上位の相手でも道義に反すれば立ち向かったので、人を惹きつけたわけです。

※3 魅力ある人格

裴注の『魏書』によれば、劉備は刺客をさしむけられたとき刺客と見抜くことができず、手厚くもてなしたので刺客は感激して彼を殺すことができなかったとされています。
しかし私は、現実そのように間抜けた出来事ではなかったと思います。
劉備はただ愚かで気付かなかったわけではないし、刺客も手厚くもてなされ餌をもらったからというだけで暗殺をやめたわけではなかったはずです。
このとき劉備は刺客の正体に気付いていたのではないでしょうか。しかし相手が誰であろうとその人間性だけに目を向け、人として対等に話をするのが劉備です。人間として正面から話をされたので感服し、刺客は刺客であることをやめたのだと思います。
(ちょうど勝海舟と坂本竜馬の関係に似ているはずです)
そのことを考えると、この刺客も劉備の人間性を理解できるぶん立派な人だったと分かります。感性の劣化した現代人とは比べ物になりません。

同書に、
「劉備は身分の低い相手でも必ず同じ卓に同席し、同じ器で食べた」
とあります。
身分で差別することなく、相手の人間性だけ見て対等に接したということです。それは自分を殺しに来た刺客に対してさえ同じでした。
まさにこれこそ人々が劉備に魅了され本心から感服し、生涯従った理由です。

(フィクション劉備のようなただの「お人好し」というだけでは、命を捧げても構わないとまで思うほど従うのは難しいでしょう)