正史『諸葛亮伝』1 生まれ、幼少期

本文訳

諸葛亮(しょかつ・りょう)は字(あざな)を孔明(こうめい)といい、(徐州の)琅邪郡陽都(ろうやぐんようと)の人で、漢の時代(前漢)に司隷校尉となった諸葛豊(しょかつ・ほう)の子孫である。

父は名を珪といい、字は君貢、後漢の末期に太山郡の丞を勤めた。珪は亮が幼いときに世を去った。

その頃、叔父の玄が袁術の所管する予章太守となった。玄は(父親を失くした亮たちを引き取り)、亮とその弟の均を引き連れて仕官した。
ところが漢の朝廷は(袁術が任命した諸葛玄を認めず)朱皓を選任して玄と代わらせた。玄はもともと荊州牧の劉表と交流があったため、(劉表の膝元である荊州襄陽へ)身を寄せた。

解説

諸葛亮の生まれた徐州は現在の中国山東省の辺りです。
かつて「斉」と呼ばれたこの地はかの太公望によって栄え、孔子を生んだ、学問の薫り高い土地柄でした。秦の始皇帝により悲惨な蹂躙を受けたことでも知られます。

正史には記述がありませんが、諸葛亮は誕生日もほぼ正確に分かっており(光和4年7月23日)、現在の西暦に直すとA.D.181年8月19~20日となります。

亮の生まれた諸葛家は代々漢の役人を勤めた「名家」と呼ばれる家柄です。※
陳寿がわざわざ「諸葛豊の子孫」とここに明記しているのは、家系が重視されていた当時、必ず書くべき先祖だと考えたからでしょう。
ところが兄の瑾の伝では「諸葛豊の子孫」という記述がない点、不可解とされています。
何故、兄について陳寿は言葉を濁したのか? 私の考えはこちら。⇒諸葛家の闇と、兄弟の複雑な事情(別館)

諸葛亮が生まれて間もない西暦184年、黄巾の乱が起きます。→『先主伝』3参照
この乱をきっかけとして、大陸は内乱状態へ突入しました。既に衰退していた漢王朝は乱を完全に収拾することができず、各地で死体の山が積み上げられることになります。
さらに西暦193年および194年の二回にわたり、曹操による徐州虐殺が起きました。無辜の民の大殺戮。今で言うジェノサイドです。男も女も子供も、犬すら区別なく、生きて動いている者は皆殺しにされました。死体の投げ込まれた河は血で赤く染まったとされています。

地元で繰り広げられたこの惨劇を諸葛亮が目にしていたかどうかは記録にはありません。
フィクションでは虐殺の光景を目にしたことで曹操へ怨みを抱いた諸葛亮が、私的な復讐心から曹操に対抗した、などと描かれることがあるようです。「諸葛亮が私怨だけで生きた」とするのは幼稚過ぎて全くあり得ない話です。でも、たとえばアインシュタインがヒトラーへ抱いた危惧に似た気持ちを、亮も曹操へ抱いたことは否定できないでしょう。

この時の大殺戮で地元が荒廃し、諸葛家が離散せざるを得なかったことは確かです。
ちょうどその頃、予章太守に任命された玄のみ、遺児である亮と均をともなって南へ移住。
残った諸葛家は呉へ移住することになったのです。

玄の運命、異説についてはこの次に書きます。


ついでの話

最近のフィクション小説やマンガでは、諸葛亮について「農民の家系出身だった」と書かれていることが多いようです。
たとえば酒見賢一氏は諸葛亮について、「(貧しい農民出身で、戦争で死ぬしかなかったので)せめて勉強をして役人となり兵役を免れるしかなかった」などと書き、ネット住民以下の知識しかないことを自ら暴露しています。プロとしてお金をもらい文章を書く人たちが、この冒頭、わずか数行に過ぎない記録文すら一度も読んだことがないという怠慢には呆れ果てます。プロを名乗ることをやめ、読者へ返金すべきです。
なお、これは「諸葛亮を貴族出身者として称えろ」などという意味の主張ではありません。
人の価値はすべて同等であり、出身階級に無関係と私は考えます。しかし地上で生きる限り、人間のアイデンティティ及び思想は出身家系と周囲との関係で作り上げられます。特に家系が重視されたこの時代は出身家系について知らずにその人物を語ることは絶対不可能です。この時代の人を語る際、出身を調べることを怠るべきではないでしょう。