正史『武帝紀(曹操)』2 二十歳で出世、本領発揮

2019年4月16日火曜日

曹操 魏志

本文訳

 二十歳にして考廉で挙げられ(出世コースに乗り)、郎(官吏見習い)となった。※1
洛陽北部の尉(警察部長)に任命された後、頓丘の令として昇進したが、中央に戻され議郎(高官)の地位を拝した。

光和の末(光和7年)、黄巾乱が起きた。
騎都尉(近衛)の命を拝して潁川の黄巾賊を討伐した後、斉南の相として遷った。
斉南には十余りの県があり、長吏(上級役人)たちは貴族階級にへつらい、汚職にまみれ狼藉をはたらいていた。このことを曹操は上奏し、役人たちの八割を罷免してしまった。また邪教を祭ることを禁じた。このため悪行をする者たちは逃亡し、住民たちもみな粛然とした。
しばらくしてまた改任され東郡太守の役を拝したが、就任はせずに病気と称して故郷へ帰った。

吉野解説

曹操が二十歳以降、出仕してからの約十年間の記録です。早くも曹操の「才能」が開花しました。

たとえば、
・ルール違反者はわずかな弁明の機会も与えずに即処刑(なるべく残虐な方法で)
・汚職官僚は全て罷免
・民間の宗教は禁止(教祖や信者は捕縛、処刑)
等々といった徹底した圧政の才能です。

最近、隣の大国で行われた政策とそっくりです。この通り現代中国政府の目指すところは曹操と同じです。そもそも現代中国の始祖である毛沢東は曹操を尊敬し目標としました。このため現代中国は曹操を「素晴らしい英雄」と称えて崇め奉っています。


米印を解説します。

※1 漢代のエリートコースに乗る

漢代、「考廉(こうれん)」という出世システムがありました。国民のなかから特別に優秀な若者を推挙する選抜制度です。
この考廉で選ばれる若者は国民中の数十万人に一人の割合だったとか。つまり最高のエリートコースであり、選抜されたなら出世は間違いない恵まれた人生となります。
しかし冒頭に記録されている通り曹操は十代の頃には狩りなどの遊びに溺れていて、勉学から逃げ回っていました。父親も頭を抱えたほどの嘘つきでもあったことから、彼を評価する人はほとんどいなかったようです。
そんなダメな若者が何故、数十万人に一人のエリートコースに乗ることができたのか?
当然ながらそこは宦官である祖父や高官であった父親の力によるでしょう。
まだ科挙(かきょ。試験による公務員採用システム)のないこの時代、親族の力で出世することは当たり前だったのです。



裴松之注より、エピソード抜粋


ルール違反者は問答無用で即、撲殺

曹操は洛陽北部の警察部長となったとき、 街中の門を改修して五色の棒を作り、左右に十本ずつ立てかけておいたそうです。
何故そのようなことをしたかと言うと、禁令(禁止されたルール)違反者をその場で殴り殺すためでした。
恐怖政治の幕開けでした。二十歳そこそこの曹操は早くもサイコパスの本領を発揮し、思うぞんぶんに殺戮を堪能します。しかしあくまでも「禁令違反した者を殺す」という名目での殺戮だったため、誰も咎めることはできませんでした。
こうして数か月が過ぎた頃、当時の皇帝に寵愛されていた宦官の親戚まで夜間外出というルール違反をしたためすぐに殺されました。
身分に関わりなく処刑し続ける曹操に住民たちは震えあがり、以降、禁令違反する者はいなくなったとのことです。
側近も寵臣も曹操を憎みましたが、辞めさせる口実がないため皆で口裏を合わせて推挙し、「頓丘の令」との栄転という形で洛陽から追放されました。

吉野感想。
ルール違反を厳しく罰するということは間違っていなかったでしょう。
さらに、権力のない者もある者も等しく処罰したことは評価されるべきと思います。
しかし弁明の機会も与えず、即刻処刑することはいかがなものでしょうか。冤罪は当然に数多くあったと思われます。
それに、そもそも単に夜間の外出禁止令を破ったというだけで他人の命も奪ったわけでもない人を、ただちに「死刑」とはあまりにも刑が重過ぎます。罪と罰との釣り合いが全く取れていないと言えます。
それも「撲殺」という残虐な方法をわざわざ採ったのは、人を苦しめて殺す行為そのものをなるべく強く味わいたかったからではないのかと疑いたくなります。だとすればルール違反者を罰するための処刑とは、口実でしかなかったのかもしれません。

なおこの話は『曹瞞伝』にあるもの。曹操を崇拝する人々は「作り話」と主張していますが、曹操の生来の性質や後の行動に照らし一貫した行動であるため史実と考えたほうが自然です。
そもそも門を改修したなど話が具体的であるため、作り話とは考えづらいです。


古典に明るいから大出世?

『魏書』によれば、おそらく頓丘令であった際、曹操は従妹の夫の宋奇が処刑されたとき連座で官職を解かれました。しかし古典に明るいとの理由で再び都に戻され議郎というかなり高位の地位を得ています。
曹操はずっと勉学から逃げ回っていたはずですが……何故、急に「古典に明るい」ということになっているのかは疑問です。しかも相当の狼藉をはたらいて追放された者が、再び中央へ戻されるとは。そのうえ議郎という大出世。
やはりここでも祖父の威光が物を言ったのだ、と考えるのが自然ではないでしょうか。

曹操は正義の人?

 同じく『魏書』によれば、曹操が議郎だった際、第二次党錮の禁について次のように上奏したそうです。
「竇武まともな人が謀略にはまって殺された。そのため今の朝廷には悪人がはびこって立派な人が出世の道を閉ざされている」
しかし霊帝はこれを取り上げず、さらに腐敗政治が続いたので曹操は怒りを募らせていたとのこと。
その後、天変地異があって霊帝が皆の意見を求めた機会に、曹操は再び上奏します。霊帝はついに彼の意見を取り上げ、貴族ばかり優遇していた三公を叱責し、讒言で陥れられていた者たちを呼び戻しました。
しかしその後も政治は改まらず日々腐敗していくばかりだったため、曹操は諦めて二度と献言しませんでした。

この箇所を読むとまるで曹操は正義の人で、不正をただすべく世に出た英雄であったかのようです。
真実であれば共感しますが、現実の曹操の行動や態度と矛盾している点が不自然です。

『魏書』は北魏の正史として、魏を称えるために書かれた書物。当たり前のことですが太祖たる曹操は称え、他の国については口汚くけなしていています。作り話らしきエピソードも多数。
このため『魏書』の曹操に関する称賛エピソードについては、かなり割り引いて読む必要があります。


クーデターは断り、宦官は「必要悪」と述べる

『魏書』で正義の人として描かれている曹操ですが、同じ史書にて、天子廃立のクーデターに参加を求められると「危険である」という理由を連ねた長文の手紙を送ったと記録されています。
また宦官の腐敗に我慢できなくなった何進が宦官廃絶(皆殺し)を計画したとき、曹操は
「宦官はいても別に構わない。元凶だけ殺せばいい」
と言って反対しています。
正義心からルール違反者を撲殺し、汚職官僚を全員罷免させたということになっている曹操にしては冷静な態度。わざわざ『魏書』にこのような記述があるのは、一貫性のない曹操の態度を批判する声を封じるためだったのでしょうか。