本文訳
袁紹が公孫瓚を攻めたとき、先主(劉備)は田櫂と東へ進出し斉の地に駐屯したが、曹公(曹操)が徐州を制圧。徐州の牧である陶謙は使いを出して田櫂に危急を告げた。田櫂は先主とともに陶謙の救援へ向かった。このとき先主が率いていた兵は、私兵数千あまり、幽州の烏丸(うがん)族の騎兵、作戦中に引き連れた飢民数千人ほどだった。
先主が徐州へ到達すると、陶謙は丹楊の兵四千を先主へ与えた。以降、先主は田櫂のもとを去り陶謙に従った。
陶謙は 先主を推薦して予州の刺史とし、小沛に駐屯させた。
やがて陶謙は病気が重くなり、別駕(べつが。側近)の糜竺(び・じく)に言った。
「劉備でなければこの州を平安に治めることはできないだろう」
陶謙が死去した後、糜竺は州民を代表して劉備を領主として迎えようとした。しかし劉備は受けなかった。
下邳の陳登(ちん・とう。陶謙に重用されていた人物)が劉備を説得するため言った。
「漢室は衰退し天下は乱れています。 今こそ功を立てるべき時でしょう。この州は豊かで、百万戸の家があります。その住民たちがあなたに低頭し“どうかこの州を治めてください”と言っているのです。(それなのにどうして受けないなどと言うのですか)」
先主はそれでも固辞して言った。
「 袁公路(袁術)が近くの寿春にいるではないか。彼の家は四代にわたり五公を出した名家で、人望を集めている。袁公路に徐州を治めてもらうべきだ」
陳登は言った。
「袁公路は驕慢で乱れた世を治める主とはなりません。今、徐州はあなたのために歩兵・騎兵十万を用意できます。この兵でお上を補佐し民を救済し、春秋時代の五覇のような偉業を成し遂げてください。また、あなたも領地を得て守り、歴史に功績を残してください。もし聞き入れてくださらないなら、私はあなたに今後従いません」
さらに北海の相、孔融(こう・ゆう)も意見した。
「袁公路は国を憂えて自分の家のことを忘れるような、私心のない者ではありません。あんな墓の中の骸骨のごとき者、意に介する必要はない。民も立派な者のほうへ味方します。天が与えたこの使命、受けなければ後悔するでしょう」
これらの説得の末に、ようやく先主は徐州を受けた。
裴松之注、エピソード抜粋
袁紹の劉備評
陳登が袁紹のもとへ使者をやり、劉備を宗主として戴くことになったと報告すると、袁紹はこう言ったそうです。「劉玄徳は度量が広くて義に篤い立派な人物だ。徐州で彼を戴くことは、私の希望にかなっている」
『献帝春秋』
解説
劉備が陶謙から徐州を譲られる、たぶんフィクションでも有名であろうシーンの記録箇所です。フィクションでは品行方正な人物として描かれている劉備が、控えめな性格ゆえに謙遜して断ることになっているようです。しかし今までの記録を読めば「劉備はそんな控えめな性格の人ではない」ことが分かるでしょう。
(ちくま文庫もこの箇所を「遠慮して受けなかった」と翻訳していますが、「遠慮して」はフィクションを投影した余計な付け足しだと思います)
だからと言ってアンチが妄想するように、
「本当は欲しかったくせに、謙遜した振りをして断る演技をしただけだ。劉備は腹黒の汚い奴だ」
ということではありません。
また、“必ず最初は断らなければならない”という古来の礼に従い、儀式として断るポーズをしていたわけでもありません。
はっきり言います。ここで劉備は本気で断っています。
意外でしょうか。信じられませんか。
しかしどうか思い込みを取り払った目で眺めてみてください。劉備が必死で断り、周りが必死で説得するバトルが見えてきます。
上の記録文でも、陳登から孔融までもが出てきて、寄ってたかって言葉を尽くして説得しているでしょう。
これは“礼儀に従って三度断る”などという穏やかな場面ではありません。
おそらくこの記録文は控えめに書いていると思います。実際はもっと説得の嵐で劉備は固辞し続け、徐州の人々が怒り出すという展開が見られたものと推測されます。
陳登はしまいに最後、「聞き入れないならあなたを軽蔑する」などという意味の強い表現をしていますね。これはよほど苛々していたことの現れだと思います(何となく気持ちは分かります)。
最終的に劉備がどうして折れたのかは不明ですが、知識人である孔融の毒を含んだ説得が効いたのかもしれません。
以降、劉備が皇帝となるまで、延々とこの「受けろ」「嫌だ」という攻防が繰り返されます。 やれやれ……。笑
何故、劉備が徐州領主になることを嫌がったのかというと、彼はあくまでも自分を現代で言うところの会社経営者のように考えていたからだと思います。
兵士たちを食べさせることを第一としていたため、地位は得たとしても最低限の自由は確保しておく必要がありました。兵士たちの生活が最優先ですから、面倒ごとに巻き込まれて壊滅したら元も子もないのです。ましてこの時、劉備が申し出を受ければ袁術に攻撃されることは目に見えていた。だからこの時の劉備の内心としては「冗談じゃない。俺にお荷物を背負わせるな」といったところだったのではないでしょうか。
劉備に「漢王室復興の志」があったと見るのはずっと後世の人々ですし、彼に大義を期待したのも当時の周りの人々、諸葛亮などです。
劉備はこの時まだ国家規模の大義は考えていなかったものと思います。しかし身近な者たちへの義と仁は人一倍ありました。その想いがいずれ国家や民へ拡大していったのだと思います。