本文訳
先主(劉備)が徐州を引き受けたという知らせを聞いた袁術は、さっそく攻撃を仕掛けて来た。先主はこの攻撃を盰眙(くい)・淮陰(わいいん)の地で防いだ。
曹公(曹操)は先主を「鎮東(ちんとう)将軍」として上表し、宜城亭候(ぎじょうていこう)に封じた。
この年が建安元年(西暦196年)だった。
先主が袁術と対峙して一月が過ぎた頃、呂布(りょふ)が隙に乗じて下邳(かひ。劉備の本拠地)を襲った。下邳を守備していた将軍の曹豹(そうひょう)は呂布に寝返り、密かに呂布を迎え入れた。呂布は先主の妻子を捕虜とした。
先主は軍を海西(かいせい)へ転じた。
このとき楊奉(ようぼう)・韓暹(かんせん)が徐州や揚州に侵略し蹂躙していたため、先主は彼らを迎え撃ってことごとく斬り、そのうえで先主は呂布へ和睦を申し入れた。
呂布は和睦を受け入れ先主の妻子を解放。その後、先主は関羽を派遣して下邳を守備させた。
裴松之注、抜粋+解説
張飛の暴走?
本文では唐突に「劉備の留守を狙って呂布が下邳を奪った」と書かれていますが、裴松之注にはこのようなエピソードが書かれています。劉備は袁術と戦うあいだ下邳の守備を張飛にまかせていた。ところが張飛は、以前に陶謙の将軍だった曹豹軍が下邳に駐留しているのが目障りだったため彼を攻め殺そうとした。このため曹豹は呂布へ助けを求めたのだった。
呂布は下邳を攻撃し、(曹豹の手引きもあって)ここを奪った。張飛は敗走した。
『英雄記』
とのこと。
これは少々、張飛の独断が行き過ぎていたように思います。曹豹が何か狼藉をはたらいていたのでしょうか。
その後の『英雄記』の記録も少し意味不明。
劉備は下邳が呂布に奪われたという知らせを受けて帰還しようとしたが、着いた頃には兵が散逸していた。そこで兵を集め……再び軍を戻して袁術と戦ったが敗けてしまった。
陳寿の本文と矛盾しており、謎です。
あるいはこの後にまた下邳へ戻って呂布に和睦を申し入れたのか?
『演義』などのフィクションではこの辺りどう表現されているのか私には分かりませんが(筆者はフィクションの詳細を知りません) 、たとえ兵が散逸していたとしても下邳へ戻った時点で呂布へ和睦を申し入れるのが普通。
妻子が捕虜となっている緊急事態なのに無視して袁術との戦場へ戻るなど意味不明ですし、さすがの劉備でもしなかったでしょう。